2021年4月1日木曜日

宗廣力三さんと宗廣佳子さん

民藝協会理事の小市璋子さんからご案内状をいただき、染色家の宗廣佳子さんの展覧会を観に国立のギャラリー「わとわ」さんに行って来ました。 

宗廣佳子さんは、郡上紬の第一人者である人間国宝・宗廣力三さんの長女であり、郡上工芸研究所の代表である宗廣陽介さんの妹さんです。
この展覧会は昨春に開催される予定でしたがコロナのために延期され、残念ながらその間に佳子さんは天上へと旅立たれましたが、この展覧会を楽しみにされていて沢山の素晴らしい作品を遺してくださいました。
控え目な色合いの中に、工夫が凝らされ高度な技がふんだんに使われていて、いつまでも観ていたいという気持ちになります。







ギャラリーには佳子さんがお父様の力三さんとご自身について書かれた冊子が置かれていたので、拝読させていただきました。
そこには、戦時中は若者達を預かり共同生活をし、満州に送り出していた力三さんは、戦後復員して来た青年たちの暮らしの糧として紬を始めたとあります。
力三さんが38歳の時、もともと桑の栽培も養蚕業も盛んな土地柄であり地織としてあったものを、再興しようと努める日々が始まります。
紬を始めた理由として、争いのタネにならない仕事、生産過剰にならない仕事、いつの時代にも通用する仕事といった点をあげていました。力三さんのスタートは紬織作家になろうではなく、ただ青年に生活の糧を得る道を開きたいということだったそうです。

昭和30年、河井寛次郎先生が力三さんが織り上げたものをご覧になり、「これは織物が専業になる前の織物です。美を求めた美しさではなく、生活の中から滲み出てきた美しさです。よくぞ作ってくれましたね。」と涙して仰ったことが、力三さんに大きな大きな力を与えてくれました。
昭和32年には八幡町に郡上工芸研究所を設立。織を志す若い女性たちが十人くらいいつも研究生として共に生活をするようになります。
朝5時には起きて薪を燃やし朝食前に一釜染色をし、一日に一反を織るというフルマラソンを1時間で走るような神業としか思えない集中力と仕事量で毎日を過ごし、郡上つむぎの名も知られるようになり、昭和57年68歳の時に重要無形文化財「紬縞織、絣織保持者(人間国宝)」に認定されました。
最晩年には、原点に戻って、織を始めた時一番最初に取り組んだエリ蚕を飼って糸をとり、着物を織り上げたいと、餌であるヒマを育てるところから始めていました。あくなき挑戦をする姿勢に佳子さんも驚かされたと書かれています。

佳子さんは8歳年長の陽介さんと二人兄妹で、陽介さんは大学4年の時に力三さんが倒れ、その代理として染色・整経などの仕事をしながら大学を卒業し、否応なく染色の世界に入りました。佳子さんは大学卒業の年にお母様が倒れ、一人娘の自分がやらなくてはという気持ちになり、卒業後松本の本郷織物工房で勉強し、その後ご実家に戻って力三さんの仕事を手伝いました。
27歳の時自分一人だけでどのくらいの仕事ができるのかやってみたいとの思いからハタ一台と共に小室市に移住、それまでの研究生たちのいる恵まれた環境をすて全て一人で取り組む生活を始めました。そして琴職人の吉澤武さんと結婚しお二人で工房結を営んでいました。
紬織の大切なのでまず糸。その糸をしっかりと染め、糊付けなど見えない作業をきちんとこなさないと、次に進ことはできないし、出来上がりの風合いにも響いてきます。

力三さんの、苦難の連続ではあったけれども、自分の道を懸命に生き抜く姿を見て育った佳子さんは、人一倍の努力と創意工夫を惜しまず生涯染織を続けられ、このような素晴らしい作品を遺されたのだと感動しました。

備後屋で育った私は、小さい頃から宗廣さんのお名前はよく耳にしていましたが、
郡上紬、宗廣家については全く知らずにいました。
先日偶然うちで40年も眠っていた吉野格子の帯を着け、
宗廣陽介さんのお話を母から聞いて興味を持ち、
また偶然に佳子さんの展覧会があって、こうやって宗廣ファミリーについて知る機会となりました。不思議なご縁を感じます。

都心はもう葉桜となりかけていますが、国立ではちょうど見頃で、日暮れ時でライトアップもされて写真に収めることができました。
桜の淡い儚いイメージが佳子さんの作品あいまって、心に沁みるひとときでした。














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